忠徳会(やりの会)について
一高撃剣部伝 宝蔵院流高田派槍術
宝蔵院流槍術の祖は、大和興福寺の子院であった宝蔵院の僧、宝蔵院覚禅房胤栄であります。
宝蔵院流高田派槍術とは、高田又兵衛吉次(号・崇伯)を派祖とする槍術の一派です。
高田又兵衛吉次は、天正18年(1590)伊賀国阿拝郡白樫村の住士高田吉春の長子として生まれ、初め八兵衛と称した。
早くから宝蔵院流を胤栄の高弟であった中村市右衛門直政(尚政とも書く)に学び、流祖胤栄にも就いたといわれています。
胤栄の寂後、直政に従い修行し、慶長20年(改元して元和元年、1615)6月に直政から印可を受けた。
又兵衛は、五坪兵庫より素槍を、穴沢盛秀より薙刀を、柳生松右衛門より刀術を学び、宝蔵院流高田派槍術の法形百一本・巴之術十五箇条を制定したと伝えられています。
又兵衛吉次は、播州明石藩主小笠原忠政に仕え寛永9年(1632)藩主の国替に従って豊前小倉に移り、寛永15年の島原の乱においては、槍手一隊を率いて本丸を陥れるなどの功名をたてました。
豊前小倉での逸話として、宮本武蔵との交流があったことは、広く知られています。
高田又兵衛吉次は、十文字の兵理について深く追求し、事理共に名人として知られ、寛文5年(1665)隠退、同11年82歳(79歳とする伝承あり)で世を去りました。
以後、宝蔵院流高田派槍術は、又兵衛の4人の息子たちほか多くの優秀な門人が輩出し、全国的に広まりました。
術理は、二間(約3.6m)の素槍が仕掛けるのを、九尺(約2.7m)の鎌槍(十文字)で応じ、これを制する技法として、現在に伝承されています。
一高撃剣部伝 一心流薙刀術
一心流薙刀術は、宝蔵院流高田派槍術とともに山里忠徳先生によって旧制第一高等学校撃剣部に伝承された薙刀の流儀です。
一説には、穴沢盛秀より神道流の薙刀・棒術を学んだ小山田将監貞政が興した流儀であるとされています。
貞政の子多門貞重は一心流の他、天流や卜伝流・神道流などを学び真天流剣術を興しました。
貞重の代から米沢藩上杉家に仕え、これらに一心流は米沢藩を中心に伝承されたといわれています。
現在伝承されている形は12本存在し、薙刀から仕掛け剣を制する技法として伝えられています。
膝の折敷や、前後左右の体捌きを多様するなど立体的な動きが特徴のひとつです。